死にたい、という言葉

自分は確か10才もいかない時期に死にたい、自殺したい、と思った記憶があるが、それを追ってか、ある日身内にも別の人が、死にたい、と言い出した。

 

何度もなんども、紙にも溢れんばかりの、死にたい、を突きつけられた。

 

多感な時期にそんな身内がいて、そんな人に影響され身内にまた精神をおかしくする人が増えた。

 

いつしか自分の中で、身内なのに絶対気分を害してはいけない人が増えた。

 

結局その身内は死ななかった。しかしながら、自分の意志の力、というものを失っていた。それを見て思ったのは、誰も、神様も、宗教も、人間を救ってはくれない、ということ。

 

己の意志の力こそ人間の力であること。

自分を救えるのは自分しかいないこと。

 

死にたいと言って本気で死ぬものもいれば、死なないものもいる。

人によっては、その言葉で人から気にかけ、構ってもらいたいと思う意図もあるだろう。

 

自分が昔死にたいと思った時、どうして死にきれなかったかの理由は、死に至るまでの痛みに耐える勇気がなかったから、というのがある。

 

痛みは生きてる証であり、痛みは生を繋ぎとめるものなのだと。

 

少なくとも、こんな風に生きてしまった結果、もともと集団の中にいても自分を主張出来たはずなのに、成長するにつれて人間関係の構築に無理に誰かの機嫌をとる傾向になってしまったのだろうか。